※本作には、衝撃的な展開や一部読者にとって不快に感じる可能性のある表現が含まれています。
※ 「yotta」、 「残像上」、「残像下」のネタバレが含まれています。未読の方は、ぜひ前作をお楽しみいただいてから本編をお読みいただくことをお勧めします!ネタバレを気にしない方は、ぜひそのままお読みください!
アンヤは美術館のベンチにひとり腰掛け、眼前の絵画に視線を落としていた。5分前から、彼女をじっと見つめる子供がいた。長い髪や左右で異なる色の瞳が子供の興味を引いたのか、それとも他に彼女を引き寄せる理由があったのか、アンヤには分からなかった。
彼女は子供が嫌いだった。
特に、あのように無邪気で愛され、幸せな家庭を持っていそうな子供が。
「…」
幸運にも、その子供は別の方向へと移動し、アンヤの左眼、つまり義眼の視界から外れた。
時には義眼も便利なものだと感じる瞬間がある。
次に、展示説明を行う案内人の声が聞こえてきた。
「この絵画はウクライナの伝統的な田舎暮らしを描いたもので、作者のポポフ・ディミトリ氏が子供の頃の思い出からインスピレーションを受けています。風で静かに揺らぐ麦畑と木々の下で休憩する農民たちが印象的です。」
偶然にも、アンヤが座っていたベンチの前にはポポフ・ディミトリの「そよ風」と名付けられた絵が展示されていた。彼の作品はアンヤの好みからは程遠く、穏やかすぎる世界が物足りなさを感じさせた。しかし今は、それでよかった。心を静めるにはちょうど良い絵だった。
彼女が美術館に足を踏み入れてすでに1時間が経っていた。
二度とここに来ないと誓った場所。
それなのに、また訪れてしまった。
自分の気の弱さに嫌気がさす。
今日ここに来た理由は、あの角の向こうにあった。そこにはニコラが描いた絵が展示されていた。しかし、その角を越えることはできなかった。なぜなら、ニコラの絵の隣に彼女が一番愛した絵と、一番憎んだ絵が並んでいたからだった。
ニコラ…時間が経ったせいなのか酒のせいなのか、彼の顔の輪郭さえもぼんやりとしか思い出せない。高校生の頃、フランスから来た彼は憧れの画家の息子であり、同時にアンヤの命を救った人だった。幼いころから憧れ続けていた「死」という無限の深淵への旅立ちを、彼は阻止したのだ。
病室で目覚めた彼女は、すぐに再挑戦しようとしたが、彼の悲しむ顔が脳裏に浮かび、それができなかった。そして彼に約束した通り、少しでも生きてみることを決意した。その象徴として、自分の自慢の作品「残像」を寮裏のゴミ箱に捨てた。過去に縛られても意味はないと悟ったからだ。
この美術館はリヴィウに引っ越してからよく通っていた場所だった。
美術高校の在学生なら入場無料という特典もあったが、それだけじゃない。
館内に漂う空気や、並ぶ絵画のセレクションが抜群で、つい長居してしまうような心地よさがあったのだ。
ゴミ焼却場行きなはずの「残像」、あれが現れるまでは。
あれ以来、あの角を超えられずにいた。
「…」
知らぬ間に、彼女の手にはじわりと汗がにじんできていた。
今それを思い出しても、何の意味もない。
アンヤは立ち上がった。
ニコラの絵を見て帰ろう、と決意した。
ニコラに会っても、言うべきことなど何も思い浮かばなかった。おそらく、何もなかっただろう。離れ離れになっていた6年間で、彼女は変わり、強くなっていた。もう、しがみつく必要はなかった。そう自分に必死に言い聞かせながら、彼女はあの角に向けて小さな一歩を踏み出した。
———–
「はぁ…はぁ…はぁ…」
胸の奥から押し寄せる痛みに耐えることができなかった。
幸いにも、女子トイレには誰もいなかった。
アンヤは頭を抱えながら、温かい涙をぽろぽろと流していた。どうして…
「panta rhei」…
あの絵のタイトルを見た瞬間、津波のように過去の記憶が彼女を襲った。彼とのお絵描き会、彼との会話、彼の涙、そして彼の唇さえもが、急に心の中によみがえってきた。それらの記憶が、彼女を引き裂くような痛みを伴って浮かび上がり、その度に胸の奥に刺さる罪悪感で苦しんでいた。
彼が彼女を忘れていないことは、残酷なほどに明らかだった。その絵が証拠だった。
もしかして、ずっと…ずっと彼女のことを思い続けていたのかもしれない。
アンヤは鮮明に覚えていた。彼がフランスに帰った直後、マルツァ・ロシノワが彼の連絡先を渡してくれたことを。小さな文字で記された住所と電話番号が、彼女の目に焼き付いている。フランスへ帰国した彼との繋がりを保つためのものだったが、アンヤはすぐにその紙を細かく裂いてしまった。気弱な自分が衝動に駆られて彼に連絡することを防ぐため、自らの手でその道を閉ざしたのだ。それは、彼に迷惑をかけないようにという彼女なりの思いやりだった――少なくとも、そう信じていた。
それなのに…それなのに、なぜ彼は彼女を諦めなかったのか?
なぜ、今になって彼の描く「アンヤ」が限りなく本物に近いのか?
出会った頃に彼が描いていたのは、彼が望んでいた完璧で傷一つない「アンヤ」だったはずなのに。
「…」
だめだ…感情が押さえつけられない…
爆発しそうな心を落ち着ける方法を、彼女は一つしか知らなかった。
いつもの方法。
急いでカバンの中身をトイレの汚い床に散らかし、探していたものを発見した。
細い刃のポケットナイフ。マルツァが何度も没収しようとしても、無駄だった。法的に大人になった今、彼女を止められるのは自分自身だけだった。良い意味でも、悪い意味でも。
ナイフは一昨日手に入れたばかりだったが、刃は慎重に研ぎ上げられており、触れるだけで皮膚をバターのように切り裂きそうなほど鋭く、透けるほどに薄かった。
鏡のように光沢のある刃に、自分の醜い顔が映り込む。
反射するように、赤い線を腕に描いた。
「!!!ん…んん…」
もう一度。もう一度。もっと…もっと深く…
嫌な気持ちがすべて血液に流れ出す。数秒前に感じていた罪悪感は、今やどこにも見当たらなかった。
残像、マルツァ、ニコラ…今この瞬間、全てが涙と血が混じり合い、狭くなった視線と心で区別できなくなっていた。
もうなにもかも、めちゃくちゃにしたかった。
傷跡をなぞりながら、新しい傷をナイフで彫る。そこが一番痛かったからだった。
震える手で傷を広げ、薄い皮膚の下の肉を見た瞬間、興奮が増した。
本当に壊れていたんだ、自分が。
「はぁ…はぁ… あぁ…うン…」
歪んだ笑みから、獣のような吐息が漏れる。
それほど気持ちがよかった。
手も服も髪も、すでに赤く染まっていた。床にポツリと落ちる血。掃除は大変だろうが、その瞬間には至福しか感じられなかった。。言葉にするなら…そう、涅槃…
視線を右手に落とした。
「なんにもできないあんな手なんて、いらないんじゃない…」と、心が囁いた。アンヤはその衝動に素直に応じ、手首にナイフを重ねた。切断を始めようとした瞬間、ようやく現実に引き戻された。
美術館のトイレは、その重労働には適していなかった。もし見つかったら、再び精神病院行きだ。そんなことを考えるだけで、身体が震えた。
「はぁ…」
トイレの中は、まるで殺人現場のようだった。しかし、加害者も被害者も、他ならぬ自分自身だった。彼女は「遊び」の後片付けには慣れていたが、今の状況はまだマシな方だった。大量の水で洗い流せば、何とかなるはずだ。傷の手当てはまず包帯を巻き、家に帰ったら消毒して縫うだけ…
死にたいと思いながら、なぜ傷の手当てをしているのか?
その矛盾する考えにも嫌気が差した。
ニコラが今の彼女の姿を見たら、どう思っただろうか?彼の絵が海外の美術館で華々しく展示されている一方、彼女は必死にトイレの床の血を拭いていた。その光景を想像すると、彼女は思わず笑ってしまった。あまりにも滑稽で、ばかばかしかった。
—————
トイレを元の状態に戻し、服と髪の血を軽く洗い流し、傷を一時的に塞いでから、ようやく展示エリアに戻った。もう帰ろうと思ったその瞬間、外国語が耳に入った。
「フランス語…」
血が凍りつくような感覚が彼女を襲った。それは間違いなくニコラの声だった。
…
その状態で彼に会えるわけがない。汚い自分が。
しかし、逃げたいのに足が動かなかった。
…
太った女性が向こうの角から何気なくこちらに向かい、絵を数点見た後、アンヤをじろじろと見てからまた角に戻った。嫌な予感が強くなり、彼女の心はますます不安に包まれた。
…
もう帰ろう。
夜の会も休もう。
「体調不良」とでも理由をつけて。
部屋に引きこもり、二度と外に出ないでおこう。そのまま餓死してしまうのも、一つの選択肢に思えた。
…
やっぱり…彼の顔だけ…その顔だけをのぞき見して…それから帰ろう。
またあの角に向けて一歩踏み出した瞬間、背の高い男性が突然現れた。
アンヤの顔が真っ白になった。
ニコラだった。
しかし、6年前のニコラとは違っていた。
彼は以前の高校生の姿とは違い、どこか成熟した大人の雰囲気を漂わせていた。
それでも、その目と優しい笑顔は彼女の記憶にそっくりだった。
今の彼女には、その光景があまりにも眩しすぎた。
今すぐ、その場から消えたかった。
足にようやく力が入り、逃げようとした
その時、ニコラが彼女の右手を強く握った。
「待って!行かないで!」
思わず彼の方を振り向いた。
だめ…見るたびに離れられなくなってしまいそうな気がしていた。
その笑顔の温かさが、痛いほどだった。
「会いたかったよ」
その言葉と手のぬくもりが心に刺さり、アンヤの内なる葛藤が激しく揺れる。
彼女の声は震え、涙に濡れていた。
「おかえり」
つづく